「……で、その人に想いは伝えられたんですか?」 私の問(と)いに、琴音先生は悲しげにゆっくりと首を振った。「伝えられなかった。……好きだったけど、相手は妻子(さいし)持ちだったから。その人の幸せな家庭を壊(こわ)すなんてできなかったし、あたしは想ってるだけで幸せだったからね」 失恋の悲しい思い出のはずなのに、話し終えた琴音先生はなぜかスッキリした顔をしている。 私には彼女が(もちろん私より年上なのだけれど)年齢よりずっとオトナの女性に見えた。「そうなんですか……」 そう言ってからアイスラテをストローですすった私は、別の質問をぶつけてみる。「ちなみに今、彼氏っていらっしゃるんですか?」 彼女は今もすごくモテるから、浮いた噂(ウワサ)の一つくらいはあるだろう。 ……正直、琴音先生と原口さんとの間(あいだ)に今何もないって信じたいだけかもしれないけれど。「今はいないなあ。っていうか、前の彼氏と二年前に別れて以来、あんまり長続きしないんだよねえ……。声かけてくる男はいるんだよ、もちろん」「ほえ~っ……。いいなあ。私にも琴音先生ほどの色気がほしいです」 願望が思わず口をついて出ると、琴音先生にフフッと笑われた。「何言ってんの。ナミちゃんだって十分(じゅうぶん)可愛(かわい)いし魅力的よ。さっきから、窓際(まどぎわ)の席のお兄さん、ナミちゃんのキレイなうなじに見入っちゃってるし」「えっ、ウソっ!? ……やだもう」 彼女が指さす席の方を見れば、確かに大学生くらいの若い男性が、私の首の後ろを凝視(ぎょうし)している。 私は慌てて自分の手でうなじを隠した。 ――というか、さっきから話が脱線しまくっているような……。 琴音先生もそのことに気づいたらしく、カップの中身をスプーンでかき回しながら話の軌道(きどう)修正をはかった。「――あ、ゴメン。話戻すね。……あたし、さっきふと思ったの。もしかしたら原口クンも同じなんじゃないかな、って。あたしが苦手だと思ってたあの上司(ひと)と」「……はい。実は私も同じこと感じたところです」 私の反応に、琴音先生は目を瞠(みは)った。 残念ながら彼女の上司にはお会いしたことがないけれど、その人の言動(げんどう)が原口さんと似ているなあと思ったことは事実だ。……まあ、その人にSっ気(け)があるかどうかは私の知ると
「うん、そうらしいの。偶然だろうけどね。でね、その中でナミちゃんが一番若いらしいの。だから、原口クンはナミちゃんに期待してるんじゃないかとあたしは思う」「私に期待……ですか?」 私は首を傾(かし)げた。それが本当だとしたら、一体どちらの意味での〝期待〟なんだろう? 作家として? それとも別の意味で……? 「ほら、若いうちなら努力次第(しだい)でパソコンだってどうにか覚えられそうでしょ? だから期待してるのかもよ? それに」 そこでまた一度カップに口をつけてから、琴音先生は続きを言った。「ナミちゃんの作品のよさを一番理解してくれてる味方は、他でもない彼でしょ?」 琴音先生ってスゴい。私の考えてること、全部お見通しなんだもん。だから。「……はい。そうかもしれません」 私は素直に認めた。ちょっと悔(くや)しいけどその通りだと思ったから。 確かに原口さんは口うるさいしSだし、イヤミったらしい時もある。でも、彼が私の小説を貶(けな)したことは一度もないし、ダメ出しだってめったにしない。 本当はもっと褒(ほ)めたいだろうに、ダメ出しも担当編集者の仕事だからとあえて厳(きび)しいことを言ってくれているのだと、私にも分かっている。 それはもちろん私のためなんだろうし、それこそが彼が私の小説を誰よりも愛してくれている何よりの証拠(しょうこ)だと私も思う。 けれど私は、やっぱり彼のことが苦手だ。
「琴音先生、人の感情って厄介(やっかい)ですよね」「えっ? どうして?」「苦手な人が急に気になり始めたり、そうかと思えば昨日まで好きだった人が急に嫌(きら)いになったり……。何ていうか、〝苦手・嫌い〟と〝好き〟の二つにハッキリ線引きっていうか、割り切れたらラクなのになあ、って」 この世の中で、移(うつ)ろいやすい人の感情ほど面倒(めんどう)なものはないと思う。もしも人の感情がキッチリ線引きできるなら、誰も悩んだり苦しんだりしなくて済(す)むのにな……。「そしたら私も、こんなに悩むことなかったのになあ、って。――あれ? 私何かヘンなこと言ってますか?」 私の話を聞き終わらないうちに、琴音先生が笑い出した。でも全然バカにしたような笑い方じゃなくて、楽しいことを発見した時みたいな笑い方、といえばいいのか――。「ううん、別に。いやあ、ナミちゃんって面白(おもしろ)いこと考えるんだねー」「……へっ?」「そりゃあ、何でも白黒(シロクロ)ハッキリ割り切れたら誰も悩まないよね。その方が気がラクだしさ。――でも、割り切れないから人って面白いんじゃないかな?」「はあ、なるほど……」 琴音先生の言うことは、実に深い。私と同じ小説家だけど、七年という人生経験の差はダテじゃないなと思う。私にはこんな考え方はできなかったから。「ねえナミちゃん。原口クンを好きになったこと、後悔(こうかい)してる?」「いいえ! 後悔なんて絶対にしません!」 私は強くかぶりを振る。それを見て、琴音先生は安心したように微笑(ほほえ)んだ。「そういうこと。ナミちゃんだって、厄介な感情があるから原口クンに惹かれたけど、それで後悔してないワケでしょ? だから人間は面白いんだと思うな」「はあ……」 琴音先生が言ったことは、私にとっては目からウロコだった。何だか心にかかっていたモヤが晴れてきた気がして、私はまだほとんど減(へ)っていなかったアイスラテを一気に半分くらいすする。 ――ところで、私には気になっていることがもう一つあった。「そういえば、根本(こんぽん)的な質問なんですけど。原口さんって独身なんですか? お付き合いしてる人は?」 琴音先生に訊くのは筋(すじ)違いかもしれない。でも、直接本人に訊ねる勇気があったら、私はこうして琴音先生に相談に乗ってもらう必要なんてないわけで。「独
「そうだ。琴音先生、私はこの先、あの人とどう接したらいいと思いますか? 『好き』って気づいたのが突然だったから、この先イヤでも意識しちゃいそうで……」 私だって、恋をしたことくらいなら何度もある。けど、どうも「好き」という気持ちがモロに顔に出てしまうらしいので、いつも相手に気持ちがバレバレになってしまう。 特に、今まで意識したことのなかった相手を好きになった今回は、会うたびに原口さんのことをヘンに意識して、いつボロが出るか私自身分からないから不安なのだ。「う~ん、そうだなあ……。急に態度を変えたら、原口クンに怪(あや)しまれると思う。だからあたしがナミちゃんなら、あえて今まで通りの態度で接するけど」「今まで通りに?」 私は首を捻(ひね)った。〝今まで通りの態度〟ってどんな感じだったっけ? 何も考えずにやってきたのに、意識してやろうとすると、今までどうやってきたのか思い出せない。「そう。まあ、〝あたしなら〟の話だけど。――どう? ナミちゃん、できそう?」「あんまり自信ないですけど……」 私は考えてから、残りのアイスラテをストローでズズズッとすすった。――あんまり上品な音じゃないなと自分でも思った。「何とか頑(がん)張(ば)ってみます」「そっか」 笑顔で意気込(いきご)む私を見て、琴音先生もホッとしたようにホットカフェオレを飲んでいた(あっ、なんかダジャレみたいになっちゃった)。「――そういえば、琴音先生はどうして今日私に電話下さったんですか?」 今更(いまさら)だけれど、私は彼女に訊ねてみる。 あの電話がなければ、私は今頃まだ部屋で一人、ウダウダ悩んでいるだけだっただろうから。――まさか、私が悩んでいることを知っていたわけはないだろうけど……。「ああ。今日はたまたまこの近くで用があったんだけど、早く終わってヒマになっちゃって。作家仲間に電話しまくってたの。もち、女性ばっかりね」「へえ……」「ナミちゃんに断(ことわ)られたら、今頃は別の作家さんとお茶してたかも」「ええ……?」 なんだ、やっぱりただの偶然だったのか。 作家という職業は本来、個人事業主(ぬし)であり自由業である。こういう横の繋(つな)がりはあっても上下関係はなくて、年齢が違っても対等な立場で付き合えるのだ。
「――ナミちゃん、今日は付き合ってくれてありがと。楽しかったよ。また一緒にお茶しようね」「はい! 私の方こそ、相談に乗って下さってありがとうございました。今度はぜひ、一緒にお酒飲みませんか?」「お酒か……、う~ん。あたし弱いからな。ナミちゃんは酒豪(しゅごう)だもんね。羨(うらや)ましいわ」「いや、別に羨ましがられることじゃ……」 酒豪の女って、男性から見たらどうなんだろうか? 色気がないだけなんじゃ……?「そんじゃ、またねー!」「ええ、また」 ――琴音先生と別れた後、私は彼女から聞いた話を原口さんに直接確かめてみたくなった。 彼が今、本当に独身なのかは知りたいところだけれど、そっちではなく。本当に私に期待しているから口うるさくなるのか、という方が今は知りたい。それを知ることで、私の中の彼に対する苦手意識もなくなるかもしれないから……。 私が今、洛陽社の近くにいるって分かったら、彼はビックリするだろうか――。 私はバッグの外ポケットからスマホを取り出し、原口さんのケータイに電話をかけた。『――はい』「あっ、もしもし。巻田です。お疲れさまです。――原口さん、今何なさってますか?」 会社にいるんだから、当然仕事だろうけれど。もしかしたら休憩(きゅうけい)中かもしれないし。『今ですか? 今は先生から頂いた原稿を、パソコンでゲラに起こしてるところです』 〝ゲラ〟とは、本になる前の「原稿」。つまり、作家が書いた原稿を本と同じ文字数・構成に直したもののことである。『どうしたんですか? 急に連絡下さるなんて。原稿でどこか修正したい箇所(かしょ)でも?』 わざわざ仕事中のタイミングで電話をかけたら、彼は当然そう思うだろうな。「あっ、いえ! そういうワケじゃないんです。……えっと、私いま神保町にいるんですけど」『えっ? 本当ですか?』「はい。さっきまで琴音先生とこの近くのカフェでお茶してたんです」 そこで話していた内容はともかく、それ自体は別にやましいことでも何でもないので、私は正直に話した。『琴音先生、って……。ああ、西原(さいばら)先生ですね。彼女も確か、もう脱稿してるんでしたっけ? 彼女の担当者から聞きました』 琴音先生の担当は、確か女性だったな。琴音先生に負けず劣(おと)らずの美人だったと思う。
「はい、そうらしいです。私もご本人から聞きました。――ところで原口さん。私、あなたに確かめたいことがあって……」『何ですか? 〝確かめたいこと〟って』「えっと…………」「確かめたい」という気持ちはあるのに、いざ言葉にしようとすると何て訊いていいのか分からない。でも原口さんだって忙しいんだから、あまり考え込んでもいられないし……。テンパった私は頭の中が真っ白になり、次の瞬間とんでもない質問を彼にぶつけてしまった。「はっ、原口さんはど……ど……、独身なんですかっ!?」『……は?』 電話の向こうで、彼が呆気(あっけ)にとられている光景が目に浮かぶ。『ええ、まあ。僕は独身ですけど。それって仕事中の人間に訊くことですか?』「――ですよね、やっぱり」 ……ああ、やっちゃった! いきなりこんな不躾(ぶしつけ)な質問をするはずじゃなかったのに。自己嫌悪(けんお)やら恥(は)ずかしいやらで、私はプチパニックに陥(おちい)った。「すっ、スミマセン! 間(ま)違(ちが)えました! じゃなくて、えーっとえーっと…………」 落ち着いて、私(あたし)! ――大きく深呼吸をした後、もう一度スマホを耳に当てた。『……先生? 大丈夫ですか?』 私がまだパニクっていると思っているらしい原口さんが、私に怪訝(けげん)そうな、それでいて気(き)遣(づか)わしげな声をかけてくる。私はそれでやっと落ち着くことができた。「あの……、琴音先生からお聞きしたんですけど。原口さんが私に口うるさくしたり、パソコンを覚えてほしかったりするは私に期待してるからじゃないか、って。それ、ホントですか?」 私はしばらく、彼の返事を待った。『……本当ですよ。僕は先生に、一日でも早く人気作家の仲間入りをしてほしいと思ってます。そのために、時には厳(きび)しいことを言ったりもしますけど、それは全部先生のためなんです。――パソコンに関しては、先生ご自身も少しずつ練習されてると聞いて安心しましたけどね』「私のため……ですか」 彼はただのイヤミーで口うるさいだけの人じゃなかった。私のことを、そこまで考えてくれているなんて……。少し彼のことを見直した。『最初から〝できない〟って諦めてしまう人は、何も進歩しません。でも先生は完全に諦めたわけじゃないですよね? 毎日少しずつでも努力していれば、いつか必ず努力
『僕は口ベタで不器用なもんで、言い方がイヤミったらしくなったり、Sっ気発揮(はっき)したりしますけど。いつも不愉快(ふゆかい)な想いをさせてすみません』「……はあ」 …………自覚あったんだ、原口さん。「いえ別に。私は気にしてませんから、大丈夫です」 その言葉にウソはない。でも、むしろそのバトルを楽しんでいることをここで言えば、「先生ってM(エム)なんですか?」って言われそうだから、あえて言わない。「――あっ、お仕事中に長々と、ゴメンなさい! 私、あなたの期待に応えられるかどうか分かりませんけど、いつか絶対に人気作家になってみせますから!」『先生……』「本になるの、楽しみにしてますね。――じゃ,失礼します」『はい』 原口さんの返事を聞いてから、私は終話ボタンをタップした。彼が言ってくれたことが、今も私の耳には強(つよ)く残っている。 ――毎日少しずつでも努力していれば、いつか必ず努力は身を結ぶ――。 ……うん、そうだよね。きっとそう。私はなぜか、その言葉を何の反発もなしにすんなりと受け入れることができた。 私はまだデビューして三年目の、〝人気作家〟には程(ほど)遠いひよっこ作家だ。ベストセラーの一つもまだ世に送り出せていない。でも、「一作でもいい作品(モノ)を書こう」と思って努力を続けていったら、私もいつかは人気作家の仲間入りができるようになるんだろうか? 原口さん(あの人)の期待に応えられるような作家に。 でもその時には、彼に一緒にいてほしい。彼が側(そば)にいて励(はげ)まし続けてくれたら(たとえSっ気を発揮していても)、私は努力することを苦痛に思わないから。「……私、やっぱり原口さんのことが好きみたい」 私は改めて、自分の中に芽生えた彼への想いを自覚した。 だって、彼の言葉一つ一つでこんなにも一喜(いっき)一憂(いちゆう)しちゃうんだもん。これが〝恋〟じゃないなら、一体何だっていうんだろう? 考えてみたら、今までに経験してきた恋と何も変わらない。ただ、相手がちょっと苦手な人ってだけじゃない! 何を戸惑う必要があったんだろう? ――この恋は恋愛小説家の私にとって、これから先のターニングポイントになる。 私はこの時、なぜかそんな予感がしていた――。
――月が変わって、五月の初め。 全国の書店の店頭(てんとう)に、私の最新作の文庫本が並んだ。――小説家・巻田ナミにとって、四作目の本。そして、二作目の長編書き下ろし小説である。 もちろん、私がアルバイトをしている〈きよづか書店〉の店頭にも。 ここは店長の清塚(きよづか)正司(まさし)さん(五十歳)が個人で経営されているお店だけれど、店舗(てんぽ)の規模(きぼ)がそれなりに大きいので、私の他にあと九人のアルバイト店員が働いている。……それはさておき。 ほんの少し前まで、原稿用紙にシャープペンシルを走らせてこれを書いていたのだと思うと、こうして無事に本として刊行されたことは作家としてとても感慨(かんがい)深(ぶか)い。 まだキャリアは浅(あさ)いので、知名度もまずまず。そのため、扱(あつか)いも平(ひら)積(づ)みというわけにはいかないけれど……。「――なんて、物思いに耽(ふけ)ってる場合じゃなかった! 仕事しないと!」 今の私は作家の巻田ナミではなく、この書店のアルバイト店員・巻田奈美(なみ)なのだ(ちなみに本名である)。「――すみませーん。本の予約をしてた者ですけど」「いらっしゃいませ! ――はい、確認致します。少々お待ち下さい」 男性のお客様に声をかけられた私は、棚(たな)の本の補充作業を中断して、レジ横のカウンターに向かう。そこには、商品検索(けんさく)や予約情報の管理を行(おこな)うためのパソコンが置かれているのだ。「今日、予約票の控(ひか)え忘れてきちゃったんですけど」 この書店では、ご予約をされる時には予約票を記入してもらい、お控えを渡して商品受け取りの時に控えを持ってきてもらうことになっているのだけれど。「大丈夫ですよ。店のパソコンにデータが登録されてますから。――お客様のお名前を伺(うかが)ってもよろしいですか?」「高橋(たかはし)ですけど」「かしこまりました。高橋様ですね。えーっと……」 予約情報のページを開いた私は、特訓の甲斐(かい)あってどうにかできるようになった片手タイピングで、「高橋」という名字(みょうじ)で検索をかけた。 ところが「高橋」という名字で本を予約されているお客様は十人以上。しかも、予約された本のタイトルも重複(ちょうふく)しているため、タイトルだけで絞り込むのも難しそうだ。「……あの、身分
「でも最近、自分がやっと一人前の作家になったような気がしてきてます。私自身、本の売れ行きが予想をはるかに超えててビックリしちゃって。こないだ入った印税なんか、ゼロの数が多すぎて『これ、金額間違ってるんじゃない?』って思ったくらい」 運ばれてきたハヤシライスを食べながら、私は嬉しさを隠しきれずにそう言った。この話は大げさではなく、事実である。私の銀行口座の残高(ざんだか)は今、大変なことになっているのだ。万から上のケタが四ケタってどういうこと? ……みたいな。「それだけ印税入ってくるようになったら、もう専業作家になってもいい頃なんじゃないですか? 書くことに専念して」「えっ、専業?」「はい。人気作家になったら、他の出版社さんからも執筆依頼が来るようになります。先生は原稿を手書きするので、そうなると今まで以上に執筆時間を長めに確保する必要が出てきます」「はあ……」 原口さんの言いたいことは分かる。パソコン書きの作家さんなら、いくらでも執筆時間の都合はつけられる。――少なくとも、手書きの作家よりは。「これまで通り働きながら執筆活動を続けようと思ったら、睡眠時間を削(けず)らないといけなくなります。それじゃ先生、最悪の場合は体壊しますよ」 彼氏としても編集者としても、私のことを心配してくれているのは嬉しい。でも……。「それだけ心配してくれてるのはすごくありがたいんですけど。私、バイトは続けていきたいです。友達もいるし、作家と書店員を両立する上での役得もあるし」「先生の気持ちは分からなくもないですけど。無理はしてほしくない――」「大丈夫。執筆時間は何とか都合つけて頑張りますから」 彼の思いやりには感謝したい。でも、ちょっと心配しすぎな彼の言葉を遮って、私は彼を宥(なだ)めた。「そうですか? 分かりました。――この問題の解決策(さく)が、実は一つだけあるんですけど」「解決策って?」 私は食事の手を止め、彼に首を傾げてみせる。「先生に、我が洛陽社の専属作家になってもらうこと、です」 私は〝目からウロコ〟とばかりに目を瞠った。でも、言い出した当人の原口さんはあまり気が進まないようだ。「なるほど。……でも原口さん自身は、あんまり薦(すす)めたくないみたいですね」「はあ。僕としては、〝作家という職業は自由業だ〟と思ってるんで。先生にはいろいろな出
――私(あたし)と原口さんが付き合い始めてから二ヶ月半が過ぎ、季節は秋になった。 今日は土曜日で私のバイトもお休み。というわけで、原口さんと映画デートを楽しんでいる。「――ナミ先生、映画面白(おもしろ)かったですね」 シアターから出るなり、彼はほこほこ顔で観ていた映画の感想を漏らした。「うん。あたし原作も好きなんですけど、映画はまた違う面白さがありましたよね。脚本家さんのウデかなあ」「あと、監督(かんとく)さんの、ね」 私達の会話は、傍(はた)から見れば映画評論家(ひょうろんか)同士の会話みたいに聞こえるだろうか。――まあ、当たらずとも遠からずなのだけれど。 今日私達が観てきた映画は、私も本を出させてもらっていた〈ガーネット文庫〉の先輩作家さん・岸田(きしだ)
「――そうそう、第二号は西原先生が引き受けて下さいましたよ」「そうですか」 琴音先生とは一(ひと)悶着(もんちゃく)あったけど、これからもいいお友達だ。彼女にも新天地でいい仕事をしてほしいと思う。「じゃあ、第三号はまた私に任せてもらえませんか? テーマはもう決めてあるから」 次回作はウェディングプランナーをヒロインにした話。美加を取材した時から決めていたのだ。「いいでしょう。打ち合わせはまた後日改めて。――ただし、できればその服はやめてほしいですけど」「えっ、なんで!? 似合いませんか?」 私は不満を漏らした。これを選んでくれた由佳ちゃんには「可愛いよ」って言われたのに! 原口さんからは不評なの!? ところが、そうじゃなかった。「いえ、よくお似合いですよ。――ただ、他の男性がいる前でそういう刺激的な格好はしてほしくないな、と」「…………はあ。そうですか」 なんか意外。原口さん(この人)にもそんな、〝
「そうですかあ? じゃ、僕のこと下の名前で呼んでみて下さいよ」 ……出た、久々のドS原口。しかも上から目線で。「分かりました。――こ……、こ……晃太さん……」 男性を下の名前で呼ぶのなんて潤の時以来のことなので、すんなりとは呼べずにどもってしまう。恥ずかしくて顔も真っ赤だ。でも、彼はそんな私のことを「可愛い」と笑ってくれた。「まあ、それは焦(あせ)らずにボチボチ変えていきましょうか。――あ、着きました。先生、ここが〈パルフェ文庫〉の編集部です」「へえ……、ここが。小さな部署ですね」 そこは五,六人分のデスクと小さな応接スペースがあるだけの、小ぢんまりしたセクションだった。当然、一番奥のデスクが編集長になった彼の席なんだろう。 まだ片付いていない荷物もあるらしく、あちこちに段ボール箱が残っているけれど、ジャマになっているわけではない。「〈ガーネット〉の編集部も、最初はこのくらいの規模からスタートしたそうですよ」「へえ……、そうなんだ」 それが今や、あれだけの大所帯になるなんて。大したもんだ。「ここもいずれは……と思ってますけど、まだスタートを切ったばかりですからね。――どうぞ、座って下さい」「失礼します」 私が応接スペースのソファーに腰を下ろすと、原口さんは自分のデスクからプチプチマットに包(くる)まれた一冊の文庫本を取ってきて私に差し出した。「これ、先生が書かれた『シャープペンシルより愛をこめて。』の見本誌です。ご自宅に郵送しようと思ってたんですが、今日来て下さったんで先に一冊お渡ししておきますね。残りはご自宅にお送りします」「わあ……! ありがとうございます!」 私は受け取った文庫本を、後生大事に胸に抱き締めた。「私ね、毎回この瞬間が一番『あー、作家になってよかったなあ』って実感できるの。今回は初挑戦のジャンルだったから余計に」 今回の原稿では〝産みの苦しみ〟を経験した分、こうして無事に本になってくれて、喜びも一入(ひとしお)だ。「この表紙、他のレーベルの編集者さん達からも評判いいですよ。『シンプルでいい。特に直筆の題字がいい』って」「そうなんだ? 直筆やっててよかった」 私はプチプチの外装(がいそう)を剥(は)がし、カバーの手触りを確かめるように表面をひと撫(な)でして感慨に耽った。そんな私を見つめる彼の目は、深い愛情
原口さんと両想いになってすぐ、私は潤に電話をした。「――潤、ゴメン。やっぱりアンタとはやり直せない。あたし、原口さんと付き合うことになったから」「……そっか、分かった。好きなヤツと両想いになれてよかったな、奈美。オレ、これでお前のことスッパリ諦めて、次の恋探すよ」 私にフラれた潤(アイツ)は、声だけだけれどスッキリしたような感じがした。 ――そして、私と原口さんが結ばれてから数週間が過ぎた八月上旬。 〈パルフェ文庫〉の創刊第一号・『シャープペンシルより愛をこめて。』の発売が三日後に迫る中、私のスマホに彼からのメッセージが受信した。『編集部が完成したので見にきませんか?』 さらに、公式サイトに書影(しょえい)もアップした、とのこと。私はそれが一目で気に入った。 私の文字がそのまま使用され、あとは原稿用紙のマス目とシャーペンの写真・ペンネームがデザインされているだけでとてもシンプルだけど、それが却って斬新(ざんしん)だ。 * * * * ――その翌日、バイトの休みを利用してできたてホヤホヤの編集部を訪れた。午前から来てもよかったけど、忙しいと迷惑がかかるかな……と思い、午後にした。 洛陽社のビルにはもう何度も来ているけれど、ここが彼氏の職場となると別の意味で緊張する。彼の働いている姿が見られると思うと……。 日傘の柄(え)を手首に引っかけ、オフショルダーの服でむき出しの肩に提げたバッグを担(かつ)ぎ直し、私は八階でエレベーターを降りた。この階は文芸部門のフロアーで、いくつかのレーベルの編集セクションと小会議室が数室あり、中でも〈ガーネット〉の編集部はこのフロアーの実に三分の二を占(し)めている。「――あ、巻田先生! お待ちしてました!」 小会議室が並ぶ廊下で、彼氏(!)になったばかりの原口さんが待っていてくれた。「原口さん! お疲れさまです。ご厚意に甘えて来ちゃいました」「〈パルフェ〉の編集部は一番奥です。案内しますね」 彼に先導(せんどう)され、私は〈ガーネット〉を含む他のレーベルの編集部をぐんぐん横切っていく。「――ところで、私達付き合い始めてもうじき一ヶ月になるんですけど。お互いの呼び方何とかしませんか?」 私はこの場の空気を読んで、小声で彼に提案した。この一ヶ月ほどで、私達の関係に何か変化があったのかといえば特にそん
私は目を閉じた。自分の心臓の音が、映画の効果音のようにバクバク聴(き)こえてくる。彼の吐息を間近に感じたかと思うと、唇が重なった。それも一瞬じゃなく、数秒間続いた。長いけれど優しいキス。 唇が離れると、彼は私を抱き締めてこう言った。「先生、今日はここまでにします。これ以上はちょっと……歯止(はど)めが効かなくなりそうなんで」 私はそれでも構わなかったけれど、その台詞が誠実な彼らしいので素直に頷いた。「じゃ、僕はそろそろ失礼します。――あ、そうだ。一つ、先生にお願いが」「お願い? 何ですか?」 私は首を傾げる。彼の事務的(ビジネスライク)な口調からして、「やっぱりさっきの続き」とかいう空気じゃなさそう。「カバーの題字に、先生の字をそのまま使わせて頂けないかなと。……構いませんか?」「えっ? ――はい、いいですよ」 作家の手書き文字を読者に見てもらえる機会なんてあまりないし、エッセイの内容からしてもそれはすごくいいことだと思う。「本当ですか!? ありがとうございます! ――じゃ、僕はこれで。また連絡します」「はい。……原口さん、ありがとうございます。これからもよろしくお願いします」 原口さんは玄関先でもう一度私にキスをして、ペコリと頭を下げて帰っていった。 ――私はソファーに座り込むと、唇をそっと指でなぞった。そこには柔(やわ)らかな感触と、どちらのか分からないカフェオレの香りが残っている。グラスを見たら、彼の分も空になっていた。 ……私、キスだけで腰砕(こしくだ)けになってる。恋をしてこんなになったのは初めてだ。 でも、原口さんに私の想いが伝わってよかった。恋心だけじゃなく、エッセイに込めた想いも。だから、彼に私の字をそのまま題字に使いたいって言われたのはすごく嬉しかった。 『シャープペンシルより愛をこめて。』、――それがあのエッセイのタイトル。 彼に伝わったように、このエッセイを読んでくれる全ての人達にも、私の想いが伝わればいいなと思う。
「――私ね、前にも話しましたけど、潤とのことがあってから、『もう恋愛は懲(こ)りごり』って思ってたんです。もう恋愛で傷付いたり疲れたりしたくないって。……でも私はやっぱり恋愛小説家だから、性(しょう)懲(こ)りもなくまた恋をしちゃいました」 考えていた台詞はどこかに行ってしまったけれど。私のこの想いだけ伝わればいい。「原口さん。……私、あなたが好きです。多分、二年前に担当になってくれた時からずっと」 よし、言えた! ――さて、彼の反応はどうだろうか?「…………えっ!? ぼ、僕ですか!?」 ……がくぅ。私は脱力した。これってわざとですか? ボケですか?「そうに決まってるでしょ!? 今ここに、他に誰かいますか?」「そう……ですよね。いやあ、なんか信じられなくて」 コメカミを押さえながらツッコむと、彼は夢心地のように頬をボリボリ。でも次の瞬間、彼から聞けたのは思いがけない(こともないか。実はそうだったらと私も密かに望んでいた)言葉だった。「実は僕から告白しようと思ってたので、まさか先生の方から告白されるなんて思ってなくて」「え……?」 待って待って! これって夢?「僕も、巻田先生が好きです。二年前からずっと」「……ホントに?」「はい」 こんなシチュエーション、小説にはよく書いてるけど、いざ自分の身に起こると現実味が薄い。「……あの、あなたが二年前に琴音先生より私を選んだのはどうして? 彼女の方がずっと魅力的なのに」「それは、僕が心惹かれた相手が先生だったからです。責任感が強くて一生懸命で、でも僕のボケには的確にツッコんで下さって。僕にとってはすごく可愛くて魅力的な女性です」 〝ボケ〟とか〝ツッコミ〟とか、いかにも関西人の彼らしい。――つまり、私達の相性は最強ってことかな。SとMで、当たり前のように惹かれ合っていたんだ……。「――実はね、私ちょっと前まであなたのこと苦手だったんです。あなたが酔い潰れた姿を見るまでは、あなたのこと口うるさいカタブツだと思ってたから」 あの夜、〝素〟の彼を見て分かった。彼は精一杯、バカにされないように突っ張っていただけなんだと。「じゃあ、あの夜に僕が本当は何を考えてたか分かりますか? ――もしこのリビングが明るかったとしたら」「え……」 私は瞬く。と同時に理解した。男性である彼が、「理性を保てなく
――そして、待つこと十数分。 ピンポーン、ピンポーン ……♪ ……来た! 私はインターフォンのモニター画面に飛びつく。「はい!」『原口です。原稿を頂きに来ました』「はっ……、ハイっ! ロック開けてあるのでどうぞっ!」 思わず語尾が上ずってしまい、インターフォン越しに彼がプッと吹き出したのが分かった。……恥ずかしい! 緊張してるのがバレバレ! もう二年以上の付き合いなのに(仕事上だけれど)、「今更?」って思われていたらどうしよう? そしてそのショックで、昨日まで練(ね)りに練った告白プランが全部飛んでしまった。「――先生、おジャマします」「はい、……どうぞ」 玄関で原口さんを出迎えた私は顔が真っ赤だったはずだけど、彼は「今日、暑いですよね」と言っただけでいつもの定位置に腰を下ろした。――彼なりに空気を読んでくれた?「あの、先生――」「あ……、原稿ですよね? ここにちゃんと用意してあります」 何か言いかける彼の機先(きせん)を制し、まずは原稿の封筒を彼に手渡す。「あ、ありがとうございます。――あの、ここで読ませて頂いてもいいですか?」「はい。じゃあ私、冷たいものでも淹れてきますね」 私はキッチンに立つと、二人分のアイスカフェオレのグラスを持ってリビングに戻った。 彼は普段と変わりなく、原稿を一枚一枚めくっている。でも今回はじっくり時間をかけて読み込んでいる気がする。「――コレ、どうぞ」 グラスを彼の前に置いても、「どうも」と会釈してくれただけで、視線はすぐ読みかけの原稿に戻された。私は何だか落ち着かず、彼の隣りでアイスカフェオレを飲みながら成り行きを見守ることに。 ――原口さんが二百八十枚全部を読み終わったのは、夕方五時半ごろだった。「どう……でした? 誤字とかのチェックはもう自分でしてあるんですけど」 私は彼に、原稿の感想を訊ねてみる。毎回この瞬間はドキドキするけれど、今回の緊張感は普段とはケタ違いだ。「……いや、これスゴいですよ。恋愛遍歴なんかもう赤裸々(せきらら)すぎちゃって、僕が読むのなんかおこがましいっていうか何ていうか」「いいんです。あなたに読んでほしかったから」 私の過去の男性遍歴は、あまり人に自慢できるようなものじゃないけれど。それでも好きな人には知っていてほしいから。
「――で? 告白の時はもうすぐなの?」 笑いがおさまったらしい由佳ちゃんが、私の顔を覗き込む。「うん」 締め切りは来月半ばだけれど、今の執筆ペースでいけばそれより早く書き上げられるはず。そしたらその日が、いよいよ告白決行のX(エックス)デーだ! 美加も由佳ちゃんも、そして琴音先生も気づいている。彼が私を好きだってことに。そして多分、私の気持ちを彼も知ってる。告白にはエネルギーが必要だけど、今回はもしかしたら〝省エネ〟で済むかもしれない。「そっか。きっとうまくいくって、あたし信じてるよ! ――さて、早く食べて仕事に戻ろ!」「うん!」 作家の仕事と同じくらい、私はこの書店での仕事も大好きだ。このお店で大好きな仲間と働けていることに感謝しながら、私はお弁当の残りをかき込んだ。 * * * * ――それから二週間ほど経った。 週四~五日は昼間はバイト、夜は原稿執筆に精を出し、休日には書けたところまでをチェックするという日々を送り、季節は梅雨からすっかり夏になっていた。今年は梅雨明けが早かったらしい(注・この作品はフィクションです)。 今日は店長のご厚意(こうい)で、有給にしてもらえた。昨日、「今の原稿、明日には書き上げられそうなんです」って私が言ったら、「じゃあ明日は有休あげるから、執筆頑張るんだよ」と言ってくれたのだ。